政治の世界に飛び込んでから早いもので20年近く。
初当選した20代から40代となった今までどのような活動をしてきたのか
想いを含めてお伝えしたいと思います。

  • 2021 -当選6回目当時45歳

    ロナ禍での総選挙。屋内での集会を避けるなど感染対策に腐心しつつ、初心にかえってとにかく街頭に立ち、自転車や徒歩での遊説で必死に訴えた。特に徒歩での遊説中には、老若男女問わず出会ったその場でお話しができ、様々な声を聞くことができた。人口減少を乗り越えていくためには、昭和時代の古い発想に基づく政治からの脱却と、世代交代が必要であり、「政治は、高齢者ばかりではなく、もっと若者を大事にするべきだ。」と日本一の高齢県で訴えた結果、お叱りも頂いたが多くの方に支えられて引き続き国政での役割を与えて頂いた。

    6期目は政治倫理審査会の筆頭幹事として、自民党議員80名以上が関わる裏金問題の実態解明のため15年ぶりの政倫審開催を全面公開で実現する。再発防止の前提となる全容解明に向けて複数の派閥幹部に対して質疑にも立つ。質疑を通じて深まった疑念を明らかにするとともに、申立てにも関わらず出席を拒み続ける40名以上の衆議院議員に対しても説明を求め、引き続き実態解明に取り組む。
    法務委員会では、ライフワークである性犯罪対策について刑法改正に取り組み、子供たちを守る性交同意年齢の引上げ等を実現。政府案で不十分だった内容を筆頭理事として修正案をまとめ、法改正後も更なる改善に取り組む。
    また、ライフワークの一つとして取り組む「音楽の自由を守る」一環として、厳しいコロナ禍を乗り越えた様々な国の音楽が一人でも多くの人に届くよう、海外アーティストの入国手続簡略化・迅速化のための在留資格「興行」の要件を改善する省令改正を実現。入管・ミュージシャン・イベント事業者間での意思疎通の充実を図るとともに、実態に即した運用改善にも取り組む。
    難民や技能実習生に関する入管法改正の審議でたびたび質疑に立ち、日本で生まれた子どもと家族への在留特別許可の特例の実現に道筋をつけるとともに、受け入れ後の難民支援策の充実にも取り組む。
    離婚後の共同親権を導入する民法改正の審議では、立法者の意思を明らかにすべく質疑を重ねて多岐にわたる不明確な条文の解釈を明らかにする。
    女性や若者の起業のハードルとなっていた会社代表者住所の公開制度を、登記情報から非表示にする省令改正を実現。
    秋田の大雨災害にあたっては、自ら災害ボランティアに取り組むとともに、被災地の議員として災害対策特別委員会で質疑に立ち、全ての支援策の前提となる罹災証明書の早期発行や、全ての被災者が支援を受けられるよう各種支援の申請期限の延長等に尽力。
    時代の変化に合わないまま慣行として続く選挙制度を、有権者の判断に資する制度に改善するため、倫理選挙特別委員会で質疑に立つとともに、26年ぶりとなる自由討議の開催でも意見を述べるなど、改正の機運を高める取り組みを続ける。 党務として国会対策委員長代理として充実した論戦で実りのある国会運営に向けて、与野党にまたがる協議・調整に当たる。代議士会長として、衆議院議員の総会である代議士会を主宰。
    超党派の議連では学校にとどまらない子どもの多様な学びの充実に向けた「多様な学び議連」の事務局長。 ネット社会におけるプライバシーを守る制度構築を目指す「プライバシー議連」の共同会長。 など、党派を超えて様々な課題に取り組む。

  • 2017 -当選5回目当時41歳

    時の民進党は総選挙に候補者を出さず、全員を希望の党から立候補させるという方針を取り、それが方針通り整わず大混乱の中で選挙が行われた。私は小選挙区での公認が取れず、比例単独で当選。その後まもなく希望の党が解党し無所属議員となった。
    今期最大の使命は、秋田市新屋に配備が予定されたイージス・アショアを阻止すること。安全保障の議論はもとより、住宅街の目の前に突如としてミサイル施設を設置することは到底納得できるものではなかった。
    国会質疑を重ねること、約10回。三年近くの間、小野寺、岩屋、河野歴代防衛大臣や時に安倍総理を相手に質疑を行なってきた。度重なる質疑の中で一貫して訴え続けたことは、「秋田のことは、秋田が決める」ということ。国は当初、イージス・アショアの配備に関し、「国の土地であるから」という理由を盾に、配備予定地域の意向抜きに計画を進めようとした。秋田においても「安全保障は国の専権事項」「国が決めたら反対しても変わらない」との意見が占め、知事も前向きな姿勢を示したことで、この一大事が粛々と進められようとしていた。このままではいけない。現状を打破すべく質疑に立った。
    「イージス・アショアの配備に関し、地元の理解は必要か」。その、簡素であるが重要な問いの答えを導くべく、当時の小野寺防衛大臣に対し執拗なまでに質疑を繰り返した。何度となく答弁をはぐらかされたが、遂には「地元の御理解と御協力が必須」という答弁を引き出した。配備の可否に、国のみならず地元が関与することになった瞬間であった。
    その後も質疑に立ち、政府の姿勢を問い、問題点を追及し続けた。そして、魁新報のスクープ、参議院選挙での勝利と秋田の矜恃が示され、大きく事態は展開していく。あれほどイージス配備に固執していた与党国会議員からも「新屋への配備はもう無理」との声が漏れ、質疑に立つ中で河野防衛大臣より「(新屋を含めて)ゼロベースで考えていきたい」との答弁が示された。その後も、住宅街からの距離が候補地選定の重要な考慮要素となること、その距離は安全性の担保だけでは足らず、不安や懸念を解消できる安心な距離とすることなど、事実上新屋配備を断念せざるを得ないような答弁を得ていった。そして、イージス・アショアそのものの断念にたどり着いた。
    イージス・アショア断念という結果が得られたのは、地元の住民や支援者等一人ひとりが熱意を持って活動したことによる奇跡の結晶だ。その一人として働けたことは政治家として光栄だった。
    そして、新型コロナ感染症対策にも取り組む。飲食店など景気悪化に悲鳴を上げる業種の家賃補助制度や、DV被害者でも安心して給付金を受給できるような仕組み作りなど、仲間と共に取り組んだ。それと共に、大きな制度の中でこぼれ落ちる、声なき声を拾うことを議員としての使命として励んだ。例えば一斉休校に伴う休業補償につき、性風俗従業員だけが補償から除外されていた件は、当時の官房長官に直談判したことをきっかけに、大きく方向転換され、職業差別と言われていた状況を改善できた。その他、DJやクラブ、ライブハウスの方々の窮状を助けるべく、業界と政治をつなげるなど、他の議員が着目しない分野の声を拾っていくことに精進した。
    「困っている人を助けるのが政治であって、既存の仕組みから取り残されている人を見つけ、救い上げるのが議員の仕事」。
    これが私の軸となっている。

  • 2014 -当選4回目当時38歳

    供が1歳になったことを機に政治活動を再開。街頭に立つべく準備を重ねていると突如、解散風が吹き始め、すぐさま選挙戦に突入した。落選中だったために秘書も事務所もなく、大慌てで準備を進めるも、人手不足で選挙事務所の鍵の開け閉めを候補者本人が行うほどであった。選挙期間の殆どが猛吹雪という悪天候ながら、ひたすら街頭に立ち続け、そして雪道を歩いて遊説した結果、多くの方に支えられ国政に復帰できた。
    この国会での最大の出来事は、安倍政権の下でのいわゆる安保法制の審議。政権は法の番人たる内閣法制局の人事に踏み込んで、今までの憲法解釈を真逆に変える論理を組み立て、集団的自衛権を可能とする法改正を国会に提出。当時外務委員会の筆頭理事だったこともあり、安保法案を審議する特別委員会の委員に就任した。安保法制の審議は、憲政史上有数の116時間という長時間にわたった。いまでこそ大臣が「通告がないため答えられない」との答弁を常用するが、当時の中谷防衛大臣、岸田外務大臣はどのような問いであっても自ら答弁し、その気概に応じ、質疑者も真正面から憲法適合性、法解釈、安全保障環境についての質疑を重ねた。
    真剣勝負ゆえに大臣が答弁に窮して委員会が止まることもしばしば(止まった回数は、私の質疑が一番多かったとのこと)。それを辛抱強く差配された浜田委員長の名行司ぶりは今でも忘れられない。最後に強行採決が行われたことには本当に怒りを覚えたが、その時、委員長の目に浮かんだ涙と忸怩たる想いを吐露した姿は忘れられない。

  • 2012 -落選当時36歳

    主党政権が政権の座から転落。初めての落選。大惨敗。落選が決まると同時に数日で議員会館と議員宿舎からの退去が命じられるため、落選後一週間ぐらいの記憶がないほど目まぐるしかった。議員の立場は失ったが、次の政権が誕生するまでは総理補佐官であったので、残務に追われた。
    突然無職になった。そうしたら、諦めていた第一子を授かる。政治活動から一旦離れ、子育てに専念することに。妻が働くことになり主夫になった。子供が1歳になるまで家事育児に励む。

  • 2009 -当選3回目当時33歳

    権交代。大きな期待を託されて民主党政権が誕生。事業仕分けのリーダーの一人として与党議員の活動が始まる。担当は公共事業と地方行政。仕分けを任された予算規模は最も大きかった。政治的なショーのように映し出された事業仕分けであったが、一つの仕分けには相当な事前準備が費やされた。各分野の専門家も民間仕分け人として多数参加し行われるもので、政権交代を契機に事業の棚卸しをする点で非常に有用なものであった。中には、省庁側から「自民党の族議員の方の手前、省庁から予算削減しにくいので、是非仕分けて欲しい」と密かに持ち込まれるものも少なくなかった。しがらみを一掃する意味でも、一つの役割を果たしたと思う。
    与党2年目は菅内閣の総理補佐官に就任。特定の担務は持たず、総理秘書官らと机を並べて、秘書官らと昼夜を共にした。総理秘書官室に机を置いて業務した政治家は史上初めてと聞いた。役人嫌いで有名だった菅総理と、総理の決裁をとりたい省庁の間の橋渡しをすることと、総理にとって耳に痛いことを率直に本人に進言することを役割と心得て、寝る間を惜しんで業務に励んだ。当時の人付き合いが、今も省庁へのアクセスを容易にしてくれている。
    そして、最大の業務は東日本大震災と原発事故への対処。これは一言で語ることのできぬ想像を絶する世界であった。詳細を備忘録としてまとめたので、是非そちらをご覧いただきたい。<HUFFPOST寺田学・元首相補佐官が語る東日本大震災の15日間>
    与党3年目は、財政を担当する財務金融委員会の筆頭理事としてスタート。ねじれ国会の中で与野党交渉は熾烈を極めた。そのような中、野田総理より再度の総理補佐官の打診があり、岡田副総理付きの総理補佐官に就任。行政改革に加え、社会保障と税の一体改革を担当する。生活の安心の基礎となる社会保障を安定化するために、何を補強するべきか、それを安定的に実行するためにどのような財源が相応しいか。総理と副総理の指示のもと、与党、野党の多くの議員と仕事をさせてもらった。
    30代前半で迎えた与党議員としての3年間は、仕分け人としての1年目、総理補佐官として官邸勤務約2年と、成果と批判と反省が入り混じった濃厚な3年間であった。

  • 2005 -当選2回目当時29歳

    期2年も経たぬうちに「郵政解散」に突入。
    猛烈な逆風にたじろぐ。郵政民営化に賛成か、反対かという二者択一の争点ゆえに、極めて単純な主張を求められ、説明に苦しんだ。「小泉劇場」と言われた劇場型選挙は、野党議員の声を日に日にかき消していった。それでも懸命に選挙区を遊説し辛うじて議席を守ることができた。
    当時29歳と永田町では若年であったが、民主党議員が激減したこともあり、総務委員会にて初めて次席理事に就任する。法案への質疑のみならず、委員会運営を早々に経験できたことは後年非常に役に立った。引き続き地方の発展、東京との格差是正に取り組む。

  • 2003 -初当選当時27歳

    めての選挙は同年代の仲間たちと、とにかく街頭に出て思いの丈を必死に訴えた。選挙カーよりも自転車で遊説。多くの方のご支持を賜り全国最年少で初当選。総理は小泉純一郎総理大臣。秋田の実情を伝え改善したいとの想いから総務委員会を希望した。その総務委員会での国会初質問は地方交付税法改正案について。麻生総務大臣を相手に、地方交付税の煩雑さや、地方と東京の格差是正を一層強力に進めるよう訴えた。父親ほど離れた大臣や官僚相手に気後れせずに取り組んだ。
    一有権者から代議士になり、何もかもが初めて尽くしだった。国会という威厳と格式あふれる環境で「普通の生活」を忘れているような政治家もいて違和感を覚えた。政治は「普通の生活」を営む人たちのためにある。この時に感じた違和感は今でも忘れないようにしている。