葉梨法務大臣が更迭された。
余りにも遅すぎた判断ではあったが、更迭は当然のことと思う。
法務委員会の責任者として、この数日間は激動の日々であった。
再婚禁止規定を撤廃する等、大きな法改正を伴う民法改正案を連日審議し、積み残された様々な問題点を指摘しつつも、委員会の採決を終えていたその日の夜、葉梨大臣の「死刑のハンコ」発言があった。
急遽、大臣の資質を問う為の法務委員会を設定し、与野党の委員が質疑を重ねた。
その委員会は異様な雰囲気に包まれた。
与党議員が質疑に立つときも、質疑を終える時も、拍手ひとつ起きず、改めて問うまでもない葉梨大臣の不見識さを繰り返し問うことに質疑者たちも疲れているように見えた。
私も質疑者の一人。
私自身、あの発言を報道で知った際はにわかに耳を疑った。
法務大臣、法務行政がもつその重大さとは、国民の権利を大きく左右し、そして国民であるかどうかも判断できる強大なものだ。そして死刑においては、法務大臣は日本国内で唯一合法的に人の命を奪う判断ができる立場にある。それを踏まえれば葉梨大臣は閣僚の中で最も重い責任を背負っていることを自覚していないことは明らかだった。
一問目に何を問うべきか。
熟慮した結果「あなたにとって死刑囚とはどのような存在なのか」と問うた。
大臣は「凶悪な犯罪を犯したとはいえ、一人の人間です」との答弁。
そのまっとうな感覚を持ちながら、なぜ、「何度も」この軽率な話題を繰り返したのか。重ねて、その理由を問うと、「聞いている方がどのような感じられるか、尋ねるを怠った」との答弁だった。
この答弁は、報道になるまで不適切極まりない発言であったことを自覚できなかったことの証左であり、救いようのない感覚であることは場内の一致するところだったと思う。
大臣の適格性を問う声が、野党のみならず、与党にも、それは出身派閥からも上がっていた。この声は、与野党の対立を超えて、法務行政の、死刑の重さを尊重する考えに立脚して声を上げられていて、ある意味、国会議員としての矜持の表れだったのだろう。
大臣は、今回の発言の真意を「目立たないけれど、法務行政が如何に重要なことであるかを伝えたかった」と何度も語っていた。しかし、あのような発言をうっかりどころか、確信的に話し続けていた大臣が、引き続き法務大臣の座に留まるれば、死刑制度自体を、そして法務行政全体を軽薄なものに貶めることを大臣は理解していなかった(もしくは理解していても行動に移せなかった)。
発言の真意が、本当に「法務行政の重みを知ってもらいたい」ということであったならば、法務行政の持つ重みを本気で守りたいのであれば、辞任する以外になかった。
それらを懸命に大臣に説いたのだが、もうそこには威厳と自信に満ちた以前の葉梨大臣はいなかった。
もう既に倒れているものを倒そうとするかのような虚無感が委員会全体に漂うなか、委員会が閉会され、間も無く大臣が辞任する旨の報道が流れた。
法務委員会に関わるようになってから、改めて法務省、法務大臣が持つ権能の大きさに驚くことがある。他の大臣と違い、人生そのものを左右する制度と判断を持ち合わせている。
だからこそ、法務大臣には一層高い倫理観と見識が問われる。
葉梨大臣は、法務行政に精通していた。それは誰の目からも疑いないものであったが、法務大臣として職権を振るうために必要不可欠な倫理観と見識は伴っていなかった。
大臣辞任をうけ、法務委員会はこの2週間を仕切り直す段取りにはいる。
先述の民法改正においては、委員会採決は終わったものの、大臣が交代したせいで本会議での採決が未定のまま放置されている。
新大臣は斉藤健氏。
週明け月曜日、今日からフル回転で法務委員会のやり直しを始める。
数週間前に聞いた旧大臣の所信を、今度は新大臣から新たに聞くところから始めなければならない。