戦後最長となった通常国会が閉会した。
議員に復帰して直後の国会は、議会のあり方が戦後最も問われた国会となった。
私は強く想う。
国会は、議事堂ではなく表決堂となったのではないか。
数さえあれば何をしても良い。憲法も、国会での議論のあり方も、多数の力のもとでは劣位になる。そんな安倍政権の思想が体現された国会だった。
憲政の神様と仰がれた尾崎行雄翁は著書に以下のような言葉を残した。
『衆議院及び世間は常に言論を侮辱し、欧米にあっては討論数各夜にわたるべき大問題も、我が国にては数時間以上の討論を許さず。賛否の議論、未だ半ばに至らざるにあたって、討論終結の声、すでに四方に湧く。我が衆議院は衆議院にあらずして表決院なり、我が国には表決堂ありて議事堂なし』
(1917年「憲政の本義」から)
100年前に嘆いたその実情よりも遥かに劣悪な国会が目の前にある。
尾崎行雄翁はこうも記した。
「一般人民から選ばれた代表が一堂に会して会議を開くのは、何のためであるか。いうまでもなく、それらの代表が、どうすれば国家の安全と繁栄が期せられるかという立場にたって、思う存分に意見をたたかわし、これを緊張した各代表が、何者にも縛られない完全に自由な良心を持って、議案の是非善悪を判断した結果、多数の賛成を得た意見を取り上げて、民意を政治に反映させるためである。故に真正の会議においては、少数党の言い分でも、正しければ多数の賛成を得て可決せられ、多数党から出した議案でも、議場の討論において、多数議員の良心を引き寄せることができなければ否決せられるのでなければならぬ。」
最後の乱闘ばかりが印象に残るが、それまでの議論の積み重ねは、上記にある「多数議員の良心を引き寄せることができ」ず、まさしく否決されるに十分な証拠を積み上げた。
それでも、法案は採決され、可決された。
今国会のもつ意味は深刻だ。
「日本を取り戻す」と叫んだ総理から、本来の議会のあり方を取り戻す道のりが始まる。